ドッグヴィルを観た感想

大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町(人口わずか15人)が、突然現れたギャングに追われる女性グレースを匿ってから、グレースと町の人々の関係の変化を通じて、人間が持つ「エゴイスト」としての側面を捉える映画。
…だと解釈している。

心にずっしりと重たいものを残す、そんな映画。

エゴイズムの連鎖

字幕版では、「傲慢」というキーワードが毎度毎度カッコ付きで登場する。ああこれが多分キーワードだなとちょっと推測できる。
で、傲慢つまり人が持つエゴイズムという視点でストーリーを振り返ってみると、映画を通じて「エゴイズムが連鎖する過程」が描かれているのが分かる。

ドッグヴィルに迷い込んだグレースを、住人であるトムは自らの思想の啓蒙のために利用しようとした。
グレースの「受け入れ」の後、やらなくていい仕事を無理やり押し付けるなど「傲慢」な態度に変わっていく町の人々。
ギャングのボスに引き渡されたグレースが、最後には町を焼き払う。

特に町の人々の変わりっぷりと、最後のグレースは、欲望というか人が持つ性質(の内の一部、と言いたい)がめちゃくちゃ剥き出しになる様が描かれていて興味深い。
この映画を「田舎の人って結局保守的だよね」という視点で見てしまうと、ラストは「グレースの復讐」という簡単な図式で終わりかねないが、最後のグレースも、やっぱり町の人と同じくエゴイストなのである。そういう意味で「連鎖する」のが問題なのだと思う。

ここまで考えて、「あれ?」と思うことがある。
人の行動の内、どこからどこまでが「傲慢」と呼ばれるのか?

上記ではストーリー上分かりやすい部分をピックアップしたが、そもそもグレースが親父と喧嘩して家出(?)したこととか、もっと言えば、「受け入れ」のために感情を抑えて町の人に気に入られように働きかけたこととか、グレースの親父がグレースのことを「傲慢」と言い放つこと自体が…
どれもこれもエゴイズムが表出した結果としての行為なのか?いや違うのか?じゃあ映画から離れて、我々が日常でとる行動もどうなのか?
え、じゃあつまり、エゴイズムって何?

…と、映画にテーマを突き付けられて逆にテーマ自体の意味が分からなくなる。ミイラ取りがミイラになってしまっている、今、そんな状態です。

こういうスッキリしない映画、好きだなぁ。

セットの削ぎ落とし

あと、この映画の分かりやすい特徴として、セットの徹底的な簡易化がある。
というか簡易というレベルではなく、削ぎ落としと言ったほうが近い。
町はスタジオの床にチョークで描かれたものとして表現される。そして実際に置かれるのはベッドとか本棚とか椅子とかだけ。
要するに、「壁」が無いのである。

監督が飛行機恐怖症でロケ地に行けないのではとか、経費削減からか、とかいろいろ邪推はできてしまうが、恐らくこの表現方法の狙いは「徹底した心理描写」だと思う。

もし、15人という規模の町を完璧にセットを作って撮影されていたら?ここまで人の心の動きが露わになることもないと思う。映画を見る者は人の心理とか内面「だけ」に集中させられる。
またグレースが農場のおっちゃんに凌辱されるシーンがあるが、それが遠景で撮影されている。
つまり絵としてどうなるか。
町の人々が日常生活を送っている状況と、おっさんが下半身出している状況が「同時に」表現される。この絵は個人的にはショッキングだった。それは逆説的に小さい集団における「無関心」「密室性」が極限まで昇華された表現のように感じた。

開始後30分で「え?まさかこのまま3時間通すの?」と思ってしまったが、見終わると映画が持つテーマを表現するに適した表現手法だと感心した。

「es」に似てるかと

誰かが「es」に似てると言っていた。あぁなるほど、と。確かにこれも題材は「エゴイズム」だと思う。
ただ「es」は、人間が持つエゴイストとしての側面が「極限環境下で」剥き出しにされていく変化の様子を描いたもので、パラダイムは「淘汰される側」と「する側」の二者だった。映画中、それは一貫して変わらなかった。
で、「ドッグヴィル」の方では、(トリガーがあったとはいえ)普通に生活していてもエゴイズムというのはあるし、しかもそれを剥き出しにする主体が次々と変わっていく(だから冒頭で「エゴイズムの連鎖」と書いた)、そういう意味で「es」よりも普遍的な内容を扱っているように思う。

どっちがどう、ってわけじゃないけど。

おわりに

扱うテーマと表現手法ががっちりリンクしていて、「映画でないと出来ない表現」を確立していると思う。この監督の作品は他にも見てみたい。
内容もいろいろ考えさせられる。
気に入るか気に入らないかは別として、一度見ることをおすすめします。
そんな映画です。

出演:ニコール・キッドマン
監督:ラース・フォン・トリアー