追悼、すぎやまこういち氏

2週間以内

早朝ミーティングのせいで眠気がとれず、「昼寝したろうかな」とベッドに横になってTwitterを開いたところ、「すぎやまこういち逝去」の文字を見て飛び起きた。これが「体に電流が走る」という感覚か。人生で初めて経験しました。

数年前に米寿を迎えていた事は知っていたし、そしてそれ以上に、歳のせいでコンサートで座りながら指揮をする本人の姿を自分の目で見た経験からこの日が来る事は直感的に把握はしてはいたものの、とうとうほんとに来てしまった。信じられない。

氏の作品を敬愛する人のほとんどがそうでしょうが、すぎやまこういち氏と自分の関係をどうしても考えてしまいます。これ以上更新される事がない未来が決定的になった時、人は反射的に目を過去に向けるのかもしれない。

改めて気付いた事として、自分が人生で最も聴いたのはこの人の楽曲かもしれない、という仮説がある。
ドラクエは10以外全部最後までやった。1から6までは無意味に全員を最高レベルに上げた。最も好きな4は多分10周くらいクリアしている。7は受験生時代に100時間オーバーのセーブデータが親父に見つかり絶望された(そして受験には落ちた)。膨大なシリーズ総プレイ時間はそっくりそのままこの人の音楽を浴び続けていた時間とイコールである。社会人になりコントローラーよりもPCと触れる時間の方が圧倒的に長くなった自分のiTunesには、全てのナンバリングタイトルのサントラだけでなく、金管アンサンブルや木管アンサンブルのアレンジCDだって入っていた。徹夜仕事のお供を果たしてくれた夜は数え切れない。
時間を計算する事は叶わないが、一番聴いた作曲者としてほぼ確と言っていいくらいには思い当たる節がある。

家で聴く音楽だけではない。

中学生か高校生くらいから意識し始めた「自分にとって決定的な意味を持つであろうライブ」が2つあった。ひとつはBlankey Jet Cityのライブと、もうひとつは本人の指揮によるドラクエ4のコンサートだ。この2つは人生の夢としてはっきり認知していた。
高知の田舎でぼけーっと高校生を過ごしているうちにブランキーは解散してしまった。この音楽的体験の欠落を埋めてくれたのがドラクエ4のコンサートだった。東京に出てきたから、ついに夢を叶える事ができた。しかも2回もだ。ほんとに自分は幸運だと思う。

中でも八王子であった東京都交響楽団によるコンサートは一生忘れられないものになった。
ドラクエの全ての楽曲の中で最も好きな「海図を広げて」の2コーラス目に差し掛かり、それまで座って指揮をしていたすぎやま先生がすくっと立ち上がった瞬間、冗談抜きに神を信じる気持ちが分かりかけた気がした。あれは今思い出しても鳥肌が立つものだ。
これで思い残すことは無いと考えていた最後、アンコールで演奏された「序曲X」では、イントロ後のスネアロール明けのメロディーインの瞬間に涙がドバーっと溢れた。自分にとっては国民的楽曲と言っても差し支えない「序曲」がいまだに進化しているという、人間の想像力の根源に魂が触れたからだ。
あれは間違いなく人生最高の音楽的体験のひとつと呼べるもので、あの出来事は死ぬまで大切にするつもりだ。

まだ触れられてない事がある。
こうやって整理していると、リスナーとして以上に、楽器プレイヤーとしての自分への影響が大きい事に気付く。

親父が買ってきたドラクエ4のサントラに付いていた音源版の楽譜をパラパラと見ていた時の事だ。クリアまで何百回と聴いた事で頭の中で完璧に3和音を再現できるまで脳に刻み込まれた戦闘曲が、実は途中で9/8拍子になる事に気付いた時の衝撃たるや、もうそれは筆舌に尽くしがたいものだった。小学生の時に感じたあの感覚は未だに覚えている。ほとんどの事を忘れて生きている自分にとってこれはとんでもない事件である。
変拍子に対する理屈抜きの憧憬をそこで抱いてしまった俺は、大学で結成したハードロックバンドで変拍子の曲を何曲か作ってしまう事になる。客ウケが悪いので途中でやめたが。

変拍子の件は半分冗談として、この原体験は楽譜を見て楽曲の構造を知る興奮を覚えさせたという意味でこれまた決定的なものなのである。
この興奮は、高校生時代に家に導入されたPCでゲーム音楽を耳コピしてmidiで再現する経験を経て、自作曲を200以上生み出すという未来へ続いて行った。そして20年経った今でも、ゲーム音楽を耳コピして譜面に落としていくという作業は、自分がこの世で最も没頭できる時間であり続けている。仕事でもこうなりたい。

しかし、氏に最も感謝している事はこれ以外にある。

ベースという楽器を持って20年、ロックとジャズでしかプレイヤーをやって来なかった自分が、頭のどこかで「いつかはオーケストラでも演奏を」とぼんやりと考え続けていたのは、完全にドラクエの影響である。ドラクエ以外にオーケストラとの接点が皆無だった自分の半生を振り返ると、このオーケストラ意識はすぎやま先生によって与えられたものだとしか考えられない。

強く意識はしていないながらも緩い想像だけが働き続けていたある日、結果として30代後半という歳で「ピッチカートしかできないコントラバス奏者」として会社のオーケストラに入団した。そこでの体験は思いがけず、自我が強すぎてチームプレイができなかった大学時代のジャズビッグバンド時代の負い目に対する贖罪として、自分に大きな意味を成す事になった。
これは相当恥ずかしい話だが、この歳になってようやくチームで音を出す働きに対する自分の役割を知覚し、ある意味では奉公と呼べる姿勢で望んだ定期演奏会で味わった達成感は、やみつきになるレベルのものだった。

小学生の頃からドラクエで聴いたオーケストラが、30年経ってこの体験に結びついているとしたら、これ以上すぎやま先生に感謝する事は無い。

どうだろう。整理し始めたらちょっと自分でも気持ち悪いくらい熱が入ってしまったが、思っていた以上にすぎやま先生からの影響があったような気がしてきて、なんだか嬉しくなってきた。

すでに55歳で作曲家として高名だったすぎやま先生が、ゲーム業界で作曲を始めるに際して残したエピソードとして「3和音というファミコン音源の制約を忌避してプロの作曲家が依頼を受けないというが、バッハがフルート1本で組曲を作っているのだから、それは理由にならない」という旨の考えを示したものがある。

プロの作曲家にゲーム音楽を頼もうとすると、メロディとハーモニーだけでは勝負できないような連中は、みんな拒否したわけです。「3トラックで音楽ができるわけがない」という声もあったんですが、 僕から言わせると、「それは力がないから」です。バッハの「フルートのための無伴奏パルティータ」は、フルート1本ですばらしい組曲ができてるわけです。あれは1トラックなんだよね。1トラックでも、メロディ、ハーモニー、リズムをぜんぶ表現できるということを、大先輩のバッハがやってるわけですから、「2トラックではできません」というのは、プロのセリフではない。

「古典を知るからこそドラクエというイノベーションを生み出した」という事実は、逆説的であるようでいてひとつの真理のようでもある。80歳を超えてもきゃっきゃとゲームを楽しむオープンマインドが先生の最大の持ち味だったろう。

自分は日本のRPG勃興と市場の成長をリアルタイムに目の当たりにしてきた。それは常にすぎやま氏の作品に触れ続けるという歴史だった。そして30年という時間を経て、ゲーム音楽はとうとうオリンピックで流れる文化アセットとして認知されるに至った。そのトップを飾ったのがドラクエの序曲なのである。

世にものを残す仕事の成功者としてこれ以上無くかっこいいし、正直言うと、羨ましい。

心よりご冥福をお祈り致します。
今週末はドラクエの曲をリコーダーで練習しようと思います。