iOS版の428~封鎖された渋谷で~をクリアして、フィクションの表現について思ったことなど

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iOS版の428〜封鎖された渋谷で〜というゲームをクリアしました。

サウンドノベルは弟切草、かまいたちの夜(SFC版)とやってこれで3作目。だいたい14年ぶりにやりました。非常に楽しかったです。この3作の中では一番好きです。単純にストーリーがイケてました。

前作「街」もそうだったみたいなんですが、実写撮影した写真と、テキストを読み進めていくというスタイルのゲーム。

こんな感じ。
後述しますが、映画を小説よりにしたものと、というよりは、小説を映画よりにしたもの、といった方が近い表現スタイルです。

5人主人公がいて、それぞれのストーリーをパラレルで進めていきます。
とある誘拐事件が起こったところから物語がスタートし、全然関係なさそうな5人の立ち居地がちょっとずつ近づいていくことで事件の全貌が明らかになって行く、というダイナミズムは映画やドラマではここまで表現できないと思います。
サスペンスとしても、事件の裏にまさかこんな陰謀が!という驚きが最後まで続き(エンディングでも)、読み物としてのクオリティも高いと思います。

誰かの選択肢によって別人物のストーリーに影響が与えられていきます。ここらへんはゲームならではの演出、ですね。

役者使って、12万枚も写真撮って、制作コストかなりかかってるように思うんですが、最初のWii版は10万本も売れてないらしいです。これは過小評価すぎるなぁという感じ。自分みたいなレトロゲーム世代が「ゲームで実写ってのがなぁ」と思うのは分かりますが、やってみたら全然気にならないです。むしろ実写以外ありえないくらいハマってます。
アクション性ゼロなのでインターフェース単純だし、タブレットとの相性は抜群です。というかサウンドノベル自体、タブレットのために有るようなゲームです。半額キャンペーン終わっちゃいましたが、iPad持ってる人は是非やってもらいたいです。そこらへんで量産されてるミニゲームなんぞより全然おすすめ。

サウンドノベル自体は中学生の頃にもプレイしていたのですが、この歳になって改めてやってみると、これはフィクションの新しい表現手法なんではないかと勝手に感心しました。

フィクションというのは、「受け手にどこで想像の余地を残すか」が大事だと俺は思ってます。
映画だったら映像表現を提供する代わりに人物の内面は我々の想像に補完させるものだし、小説は逆で、内面を強調する代わりに映像を想像させるもの。漫画は中間ですかね。SFC世代のRPGはまた違うレイヤーな気がしますが、漫画よりも映画に近いポジションをとりつつ、デフォルメされた映像をインタラクションに応じさせる手法でした。
小説もたまに読むんですが、この手法のネックって、情景描写が頭の中で固められないのはお構い無しにどんどんストーリーが進んでいくと、いちいち頭を止めないといけないという部分にあると思っています。俺の想像力の問題ももちろんあるのですが。

サウンドノベルというスタイルは、イメージとしては「小説の右ページにテキスト、左ページに写真がある」みたいな感じなんですが、俺にとってはすごくちょうどいいバランスでした。もちろんテキストが主体ではあるんですが、「頭が迷わないように」情景描写が挿入されていると。
文字通りの「音の補完」は俺にとってはどうでもよくて、それよりもビジュアルが補完されていること、というのがサウンドノベルという手法の妙だなと思います。

製作コストは高くなるでしょうが(映画に比べればましだ)、こういうスタイルのフィクションがもっと生み出されてもいいなぁと思います。これからもっとタブレットが流行るだろうし。
そういうことを考えさせてくれたゲームでもありました。

サスペンスということでストーリー自体に深い意味は無いのですが(多分)、大沢編での「伝えたいことはちゃんと言葉にして言わないと」という下りは結構グッときました。個人的に結構思うことがあるので。
あとは隠しストーリーの遠藤鈴音編も良かったです。泣けました。

不思議なダンジョンシリーズやこのサウンドノベルみたいに、チュンソフトってすごく企画力があるメーカーだなぁと思っていて、それは主に中村光一の手腕なのかなぁと想像するのですが、これからも野心的な作品を作り続けてもらいたいメーカーです。

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