アクション映画を全く見ない私によるマンオブスティール感想

ほとんど映画を見ない上にアクションやSFモノに全く興味がない私が、どういう因果か「マンオブスティール」を映画館で見てきました。

経緯を言っておくと、会社の人たちと飲んでて「あ、レイトショー見に行こか」「いいねぇ」ということになり、私は風立ちぬを推したものの絶対寝るという理由で反対にあい、激論の結果ドンパチやってる方が寝ないだろうという映画を見る理由としてはかなり後ろ向きな理由でこいつが選ばれました。開演3時。終了5時半。まぁ確かに。

RPGにしろ漫画にしろ映画にしろ、自分が作品に求めるのは「トラウマやコンフリクトを、人が乗り越えていく姿」であり、ド派手な映像ではないのですが、大スクリーンで最新の映像技術に触れるのもいいなと思ったし、ヒーロー自身が幼少期に苦悩するというあらすじにちょっと興味を覚えたので、それなりに楽しみにして向かいました。

ちなみにこういうドンパチ系の映画を見に映画館へ行くという経験自体がもう覚えられないほど昔のことで、もしかしたらインデペンデンスデイまで遡るかもしれません。さっきWikipediaで調べたら17年前でした。うおお。

空いた口がふさがらないほど凄いアクションシーン

開始時点でもう3割くらい寝かかっており、「俺たぶん寝るわー」「ははは」みたいなテンションだったのが、映画が始まったらラストまでマジで寝る暇がありませんでした。というか凄すぎて笑えました。最近の映画ってとんでもないことになっている。

モーションがとにかく凄いです

特に凄すぎると思ったのはヒーローの「動き」。
どデカいUFOがどどーんと登場したり、ビルがバコーンと倒れるのはもう既視感ありまくりで、さらに綺麗にリアルになりましたねはいはい、っていうくらいの感想なんですが。人のアクションについてはパラダイムシフトが起きている!と感じました。

数年前にX-MENの映画を(しゃあなしに)見た時もヒーローは沢山いて、彼らは超人として当然のように俊敏に動いたり、クソ重たいものを持ち上げたりするんですが、それは今振り返ると「ただ早く合成しただけ」「ただ手の動きと物をくっつけただけ」というレベルの表現でしかなかった。

この映画では、超人同士が殴り合った時の”衝撃感”だったり、移動したときの”スピード感”だったり、重たい物の”質量感”といった、もはや”感”としか書きようの無いものが、めちゃめちゃリアルに表現されてる。もし超人がいたらマジでこう見えるんだろうな、て気がしました。
物理シミュレーションのノウハウも蓄積され、それを表現するCG技術もアホみたに発達した結果なんだろうと思いますが。

で、この映画の魅力の99%はもうこれで終わってると思います。

3Dメガネの効用

3Dメガネは初体験で、食わず嫌いの「ナンボのもんやねん」状態だったんですが、これはこれですごい技術やなぁと素直に関心しました。
ただ、フルCGシーンに比べると実写ベースのシーンは威力が激減する。
この映画の場合、前半の場面がクリプトン星(=ほぼ全部CG)、後半が地球(=実写ベース)ということで、前半の方がやたら映像が凄かったという悲しい結果に。映画の構造上しょうがないけどね…

とはいえ、映画にどうしても必要な技術とは思えないです。やっぱり。

空いた口がふさがらないほど中途半端なヒューマンドラマ性

期待してなかったアクションには度肝を抜かれたわけですが、本命の「ヒーローが悩み、葛藤する」テーマについては何から突っ込めばいいか分からないほどのお粗末ぶりでした。

葛藤を乗り越えた感ゼロ

激中、主人公が自分の特異性について悩み葛藤する場面はちょくちょく出てきます。親父(育ての)が事あるごとに「まだその時でない。我慢だ」みたいなことを言い続けます。ただそれもオムニバス的な描写に留まり、彼自身が成長していく過程描写という側面はかなり希薄です。
そんなことよりも、最終的にどうやって地球人と折り合いをつけていったか、というプロセスがまるで語られない方が大問題です。

後半、クリプトン星人から地球人を守るためにその力を人前で披露するわけですが、困惑するアメリカ軍の将軍に対して

スーパーマン「私は味方だ。信じろ」
将軍「わかった」

将軍が一瞬で信頼します。

いや確かに地球が大惨事なうだから、地球人サイドの事情として藁にもすがる気持ちは分かる。
でもこの場面って、ヒーローの葛藤をテーマにするなら「映画としての結論」として演出する必要があるんちゃうの。というかこのポイントさえちゃんと描ければ、ゾッド将軍と和解するエンディングだろうがぶっ倒すエンディングだろうがどっちでもいいです。俺としては。

親父の死を経て、「世界と敵対してしまうヒーローを経験してから」、最後に協力。だったら分かるけど、中間が無いから「葛藤を乗り越えた感」がゼロ。

「親父はああ言ってたけど、意外と大丈夫でした」って風にしか見えん。なんだそりゃ。

こういう中途半端な演出にするくらいだったら、このテーマ設定はむしろ不要だったくらい。スーパーマンによる超爽快アクション映画、以上。でよかったんちゃうか。

何の伏線だったんだ

後半、本当の父親(ホログラム状態)がゾッド将軍に「クリプトン星人と地球人は共存できる!」と叫ぶシーンがあるんですが。これ何の伏線だったんですかね。
主人公にはそんな可能性を検討している姿勢が微塵も見受けられないんだが。

しれっと出てきたブラックホール

もはや映画テーマ関係ないけど、勢いで書いてしまう。
敵の宇宙船を退治する最後の手段が、「ブラックホールで消してしまおう」「それだ!」みたいなテンションで即決されるんですが、原理についてほぼ説明ない。で、このブラックホール、敵だけ飲み込んで都合よく消えてなくなるんだが、ブラックホールってそんな扱いやすいもんなんでしょうか…?

…といった具合で、細かいことを気にする人には向いてない映画だということだと解釈でいいでしょうか。いいですよね。

最も印象に残ったこと

本編と全く関係ないところでちょっと考えさせるシーンがありました。

自然出産で子孫を残す地球人と異なり、クリプトン星人はその子に求められる役割を予めDNAに設定して子を「造る」という設定のようです。たぶん種全体としての最適化を考えているわけですね。

で、ラストのスーパーマンvsゾッド将軍との一騎討ち中に、将軍は言います。「私はクリプトンを存続させる役割を負って産まれてきた。だから地球がどうなろうとその役割を果たすのみ」的なことを。

彼の言うことは間違ってなく、少なくとも彼自身に与えられた役割という範囲内では正義です。ただ、現象として以下のことが認められます。

  • 全体最適下において、ピンポイントな役割を果たそうとする個体が存在する(ゾッド将軍)
  • 環境の劇的な変化が起こった後(クリプトン星の壊滅と、移住先惑星としての地球の可能性)、
  • その個体は全体最適化行為を行うとは限らない(地球への侵略)

ゾッド将軍が置かれる環境が「クリプトンと地球」という枠組みまで広がったはずなのに、インプットは依然「クリプトンのみ」の都合であるところに歪みが生じます。だから地球人から彼を観察した時に「ただ迷惑極まりない」という事象になってしまいます。

なんでこんなことが気になったかというと、「いずれ我々はこういう個体を生み出してしまうだろう」と思うからです。

我々は、様々な機能をプログラムによって代行することを覚えました。
例えば、かつて飛行機のチケットは電話による人と人の会話の中で予約するものでした。それが今はサイトにアクセスしてちょくちょくやれば大丈夫な時代です。
そしてこれらのプログラムは代行する領域を日々ひろげています。で、そのうち意志を持たせることになると思います。なぜって、そっちの方が便利だから。1年後か5年後か50年後かは知りません。でも意志決定モデルの研究なんぞもう星の数ほどあります。自分も大学院時代にちょっとかじりました。

そういう時に、プログラムにインプットできる「環境条件」はたかだか有限であるのは間違いなく、その範疇外の環境変化が起こった場合にプログラムがとる行動は、人間から観察したら「機械が暴走した」と見えるはずです。

SF漫画の読み過ぎでは無くて(むしろ嫌い)、そろそろマジであり得そうだと思ってるので言ってます。で、こういう事象に面した我々はがとる行動ってのはかなり興味あります。たぶんあんまり褒められたものではないと思う。

スーパーマンとゾッド将軍がバコスコ殴り合ってる間、こんなことを考えました。

まとめ

映像技術はマジですごくて職人根性をビシバシ感じました。
ただこの映画がすごいというか、映画業界がすげーって感じなので、3年に一度映画館に足を運べばいいかな、くらいです。

あと一番笑ったのは、南極か北極かしらんけど宇宙船の中で親父に会った主人公がスーツに着替えた瞬間、無精ヒゲがツルツルになってたところです。